“
典型的なメタフィクション的仕掛けには次のようなものがある。
* 小説を書く人物に関する小説。
* 小説を読む人物に関する小説。
* 表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に抵触するストーリー。
* 通常と異なる順序で読むことができる非線形小説。
* ストーリーに注釈を入れつつストーリーを進める叙述的脚注。
* 著者が登場する小説、監督が登場する映画やドラマ。
* ストーリーに対する読者の反応を予想するストーリー。
* ストーリーの登場人物に期待される行動であるが故にその行動をとる登場人物。
* 自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物(第四の壁を破る、とも言う)。
* フィクション内フィクション。
— メタフィクション - Wikipedia (via nakano)
“「えーキモーイ!! 小学生に恋するのが許されるのは小学生までだよねー! キャハハハ!」としておくと いたってマトモな発言になります”
— Twitter / TANIGUCHI Hikaru (via rpm99)
“父親のトラウマ的体験を「それについては何も語らない」という仕方で遺贈された息子にとって、「父のトラウマ的経験」は、「トラウマ」と呼ぶことが出来ない。
というのは、トラウマというのは語義的には「実際に経験したはずなのだが、それを言語化して、自己史の正史に登録することができない経験」のことだからである。
ただし、フロイトがヒステリー症例研究で指摘したように、トラウマ的経験の中には「実は経験していないこと」が含まれている。
「実は経験していないこと」を「私は『何か言葉にできないようなこと』を経験した」と思っていて、その「経験したはずなのだが、どうしてもそれを言葉にできない不能」に苦しんで、それが人格の骨格をかたちづくってしまっているというトラウマの病態が存在する。
村上春樹における「中国」はそのような種類のトラウマではないのか。
その場合、「実は経験していないこと」を「物語」として語り、ありありと現前させるというのは、このトラウマから離脱するための効果的な方法でありうるのではないか。
村上春樹がやっているのは「そういうこと」ではないのか。”
というのは、トラウマというのは語義的には「実際に経験したはずなのだが、それを言語化して、自己史の正史に登録することができない経験」のことだからである。
ただし、フロイトがヒステリー症例研究で指摘したように、トラウマ的経験の中には「実は経験していないこと」が含まれている。
「実は経験していないこと」を「私は『何か言葉にできないようなこと』を経験した」と思っていて、その「経験したはずなのだが、どうしてもそれを言葉にできない不能」に苦しんで、それが人格の骨格をかたちづくってしまっているというトラウマの病態が存在する。
村上春樹における「中国」はそのような種類のトラウマではないのか。
その場合、「実は経験していないこと」を「物語」として語り、ありありと現前させるというのは、このトラウマから離脱するための効果的な方法でありうるのではないか。
村上春樹がやっているのは「そういうこと」ではないのか。”






